他人と接触すると、なぜが相手の記憶に残ろうとする。
例えば、友達の友達。
社交辞令かもしれないが、相手に悪い印象を与えてないように。
そして、「見えない君」にならないよう存在していたアシアトを残す。
なぜそんなことをするのか?
なぜ初めて会った人間に好印象を持たれようとするのか?
よく考えてみると理由がない。
友達を増やしたいわけでもない。
ただ、相手に存在していた。
というアピールをしているだけなのかもしれない。
原因を作るから余計なことが増える。
存在はただ存在するだけでよく、アピールする必要はない。
存在を消す努力をすれば、自分の時間が増えて雑念も消える。
自分の時間を新たに作るのではなく、
もともと全部、あなたの時間だった事を思い出す。
生きている。
生きていた。
そんな証明はしなくていい。
見えない君になって、見えない私になって
そしてようやく、あなたの純粋な時間が進み出す。
他人の会話にアイヅチをしなくていい。
他人に良く見られようとする必要はない。
余計な仕事が増えるだけ。
原因を作るから余計なことが増える。
余計なことをしてるから、自分がナニモノなのかがわからない。
既存の当たり前は、大衆を作るシステムになっている。
大衆にカテゴライズされると、個性はなくなる。
自分の存在を消して純粋な時間に戻す
ただ、存在を消すのではない。
存在の表現方法が違うだけ。
存在証明は、光を放つこと
人間に対して、光り(存在)を伝えるのではなく
なんとも知れない、とてつもなく偉大な「なにか」に対して輝きを放つ。
そのなんとも知れないモノに対してだけ、存在のオーラを放つ。
今日も師匠に良いインスピレーションを与えもらいました。
無駄な存在証明は、限られた時間の浪費。
そんなことをするくらいなら、
「見えない人」に積極的になり、自分の時間にする。
年を重ねるほど、残り時間が速く感じるそうです。