奈良の大仏を写真にパチパチ撮る人がいます。
奈良の大仏じゃなくてもいいです。
神秘的なスポットを観光してはパチパチ撮る。
写真にする。
拝む。
何かよく解らないけど、見に行く。
仏教の成れの果てです。
これは、違う方向でメンター(指導者)を見ています。
写真に残したところで何も生まれない。
拝んだところで何も生まれない。
見たところで何も生まれない。
なぜか?
「あなた」が「閃か無かった」という事実を生んだ
だけのこと。
すなわち、改めれなかったことは
何も生まなかった。
ただの暇潰し。
という、記憶の奥底の「本棚」に忙殺しただけの結果を生んで満足してしまったこと。
大仏の写真を撮ることでも、大仏を拝むことでも、大仏を見に行くことが、
真意ではない。
ことに気付いていない。。。
それが、偶像崇拝の恐ろしいところです。
偶像崇拝の恐ろしいところは、
真意を「忘」殺するほど、出来が良いところです。
そうならないためにも、常に閃いて変化していくことが、メンターの望んでいることです。
そうしない限り、真意に近づくことすらできません。
仏教が正しく伝わらないのも解ります。
テクノロジーと解釈して後生に繋げるか。
精神と解釈して後生に繋げるか。
このどちらかを選ぶかでさらに平行宇宙は広がっていきます。
私のメンターは何回も言ってくれます。
しつこいくらい言ってくれます。
マインドセットが大事ですよ。
と。